ダラダラと読書をしていたら、時計は真夜中を知らせていた。 「ダラダラ」という言葉には「己の怠惰を恥じていますよ」と他者へ知らせる為の僅かなプライドが含まれる事も多いが、今回ばかりは「私は大いにダラダラしたのだ!」と誇らしく思う。 私はもう随分と長い間、「ちゃんと」ダラダラとしていなかったように思う。 ダラダラとしていない日々は、時間や命を使うことで、多くの学びをもたらしてくれる。 己の未熟さ、可能性、他者からの優しさ、厳しさ、様々な眼差し。

我々は、日頃から「ダラダラ」と対になるような点に浮遊している。通勤電車の混雑、スーパーでの買い物、趣味で踊る心、それら全てはダラダラとは程遠い点に位置している。 もし「ダラダラしてしまった」と休日を振り返るあなたがいるならば、ダラダラ界隈のビギナーで、ダラダラ協会のビギナーバッジは燦燦と輝くだろう。

案外、ダラダラは難しい。

ダラダラしながら、読書をした。 読みたいページだけ読み、好きな段落を何度も往復した。時計は次の段落への出発を待つように、秒針をチッチッと進めている。

それでも私は同じ文章を愛でる。 その小さな抵抗を自由と呼ぶのだと思った。

自由って何だろうか。自由について考えることは、日々の不自由を浮き彫りにするだろうか。

ダラダラしても、ダラダラしなくても、

床に伏せり、夕方を迎えても、それは自由だ。 休むことを選び、休まないことを選ぶことも 全て自由だ。

女でも、男でも、それ以外でも ロマンチックを分かっても、分からなくても 爪がありのままでも、色が塗られても、 たけのこの里派でも、きのこの山派でも、 それらは、全て自由だ。

秒針は進む。私も僅かに進む。 床に伏せり、真夜中を迎えても、 私は僅かに進む。